- PROFILE
松井稼頭央(まつい・かずお)
- 1975年大阪府生まれ、メジャーリーガー。PL学園高校時代は投手として活躍、甲子園にも出場。
- 1994年、ドラフト3位で西武ライオンズに入団。内野手、スイッチヒッターに転向。
- 1997年には62盗塁で盗塁王になるなどリーグ優勝に貢献。 同年のオールスターゲームでは1試合4盗塁の新記録を樹立してMVPを獲得。1998年にはシーズンMVPを受賞。2002年にはスイッチヒッターとしては史上初の3割30本塁打30盗塁の「トリプルスリー」を成し遂げ、「センチュリーベストナイン」にも選出。2004年、メジャーリーグのニューヨーク・メッツにFA移籍し、初の日本人内野手メジャーリーガーとなった。
- 2004年の開幕戦では、メジャー史上初となる開幕戦新人初打席初球本塁打を記録。その後は怪我もあり、2006年シーズン中にコロラド・ロッキーズへトレード移籍。。
- 2007年はプレーオフで逆転満塁本塁打も放つなどリーグ優勝の原動力に。ワールドシリーズでは、岡島秀樹や松坂大輔が所属するボストン・レッドソックスとの対決となり、史上初の日本人直接対決が実現。
- 2007年オフ、ヒューストン・アストロズと3年1,650万ドル(推定)で契約して移籍した。

走攻守三拍子揃った華やかなプレーぶりの陰では、地味で粘り強い努力を続けてきた松井稼頭央さん。投手として高校時代に活躍しながらも、肘を痛めて3年生最後の夏は甲子園行きを逃した。プロ入り後に野手、そしてスイッチヒッターに転向し、走塁も、打撃も、守備も、一から練習を重ねてレギュラーの座を掴み取った。そして、日本を代表する遊撃手へと成長すると、さらなる高み、メジャーリーグへと移籍。日本で築き上げた地位にしがみつくことなく、言葉や習慣も異なる海外へ渡り、再び、一からの挑戦を始めた。「世界一になる」という夢を追い続けるメジャーリーガーの、転機をチャンスに変えた瞬間とは──。

- 丸山:
- まず、メジャーリーグという世界最高峰のリーグを意識し、目標に据えた時期ときっかけについて教えていただけますか。
- 松井:
- 「僕は幼い頃から、日本のプロ野球をテレビで見たことしかなかったですし、当然そこを目指して野球をしていました。それが、実際にプロ入りし、1996年に日米野球に出場できたとき、初めてメジャーリーグを意識しました。メジャーリーガーのプレーを間近に見て、実際に対戦してみて最初に感じたのは、とにかくこの人たちは凄いなと。アレックス・ロドリゲス、ランディ・ジョンソン、ペドロ・マルチネス……。世界中から野球が上手い選手たちが集っているのがメジャーなんだと実感できましたし、上には上がいるものだなと。それと同時に、そうした世界のトップクラスと一緒のフィールドで野球をしてみて、楽しいなと感じたんです。みな個性豊かで、魅力的な選手ばかりで……。そのとき、いつかは僕も、メジャーへ行ってみたいと思い、まずは日本で結果を残し、9年経ってFAの権利を得たときには挑戦したいなと」
- 丸山:
- そして、日本のトッププレーヤーに成長すると、2004年、ニューヨーク・メッツへとFA移籍。「いつかは──」という思いを実現しました。
- 松井:
「野球に限らず、なにかを追いかけている人ならば、まだ手にしていないものを求める気持ちは、止められないと思います。その『なにか』が、僕にとっては、『もっと野球が上手くなりたい』ということでした。僕は、打撃なら10割打ちたいし、守備ならエラーなしというのを理想にしています。もちろん無理なことはわかっていますが、ミスを一つでも減らしたいという思いは常に持っています。そのためには、上の世界があるなら、そこに身を置いて自分をレベルアップしたかったというのが正直な気持ちでした」
- 丸山:
- もちろん、FA権を得たときには、日本に残ってそのままプレーするという選択肢もあったわけですが、迷いはありませんでしたか。
- 松井:
- 「日本の球界に育てていただいた恩があるわけですから、迷いがなかったといえば嘘になります。でも僕は、なにかを得るためには、なにかを捨てなければならないと、先輩方から教わって育ちました。僕は若い頃、年間通じて試合に出たいために、お酒も控え、遊ぶこともやめて、練習に没頭した時期がありました。メジャー挑戦も、同じですよね。いままで日本で築き上げたものを守ることに興味はありませんでした。むしろ、一から、アメリカに挑んでみたいと、そして、自分自身の力を高めたいと、それだけでした」
<来週につづく>
構成/平山譲
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「思うにまかせぬ逆風の中で」 |
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華々しいメジャーデビューのあと、
怪我に悩まされ苦しむ。
その逆風の中で松井さんを支えた精神とは |