一度はゲームセットした夢へ。日本人アンパイア、ベースボールの母国で裁く。

第3回 平林岳さん 野球審判員

2009年1月26日

インタビュアー 丸山貴宏

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平林岳さん
  • PROFILE
    平林岳(ひらばやし・たけし)
  • 1966年兵庫県生まれ、野球審判員。中学生時代からプロの審判を目指し、國學院大学卒業後、日本のプロ野球、セ・パ両リーグの審判テストを受けるも、身体検査で裸眼視力が規定に満たずに不採用になる。
  • 1992年、渡米してジム・エバンス審判学校に入学し、日本人初のアメリカプロ野球審判となる。
  • 1993年、パ・リーグからスカウトされ、東京審判部に入局。1999年4月7日には、松坂大輔投手(現ボストン・レッドソックス)のプロデビュー戦の球審を務めるなどした。
  • 2002年を最後に退局し、渡米してジム・エバンス審判学校に再入学。2005年、マイナーリーグで米国球界復帰を果たす。
  • 2007年、ミッドウェストリーグ(ミドルAクラス)のオールスターゲームでも球審を務める。同年7月、アドバンスドAクラスへの昇格を果たし、カリフォルニアリーグの審判となる。
  • 2008年、サザンリーグ(ダブルAクラス)に所属し、シーズン終盤にはチーフクルーとして数試合を担当。
  • 2009年は、日本人初となるトリプルAクラスへの昇格が見込まれている。その場合、日本人審判として初めて、臨時的にメジャーリーグのグラウンドに立つ可能性がある。
  • 現在はアメリカでメジャーリーグの審判を目指す傍ら、日本のFMラジオ局・NACK5でゲスト解説なども行っている。
Next update 平林岳氏
日本で閉ざされた扉を、アメリカで開く。

2009/1/19

スカウトされて「逆輸入」で日本へ。

2009/1/26

忘られぬ夢を追って、ゼロからの再出発。

2009/2/2

見えてきた、メジャーという頂きを目指して。

2009/2/9

スカウトされて「逆輸入」で日本へ。

1992年、アメリカの審判学校を卒業し、晴れて審判になることができた平林さん。マイナーリーグからのキャリアアップを始めて1年後、おもわぬオファーが日本からもたらされた。それは、一度は視力検査で不採用となったパ・リーグからのスカウトであった。帰国後約9年間、日本のプロ野球を舞台に活躍。松坂大輔選手のプロデビュー戦や日米野球などの球審を務めるなど、充実した日々を送ってきた。しかし、心の中には、帰国して以来、ずっと燻りつづけていた夢があった。「最高峰メジャーリーグで審判を務めたい」。そして、家族の一言に後押しされ、再渡米を決意する──。

「もし、明日自分が死んでしまっても、後悔しない人生を歩みたい。まだ遅くはない、もう一度アメリカで挑戦しようと」

丸山:
日本の球界で審判をするということは、そのとき芽生えていたメジャーリーグ昇格という夢を諦めてしまうという選択だったのでしょうか?
平林:
コミュニケーションがうまくできず、周囲には日本人が一人もおらず、フラストレーションが溜まっていきました。寂しかったというのが、帰国のいちばん大きな理由だったのかもしれません。もともとは日本のプロ野球の審判をやりたいと思っていたわけですし、一度は経験してみてもいいかなと。でも、夢を諦めるつもりはありませんでした。いつでもアメリカに戻れるという思いで帰国したんです。いま思えば、日本にいた9年間も、僕の財産になっているなと実感しています。日本の野球のレベルが高いということが肌で感じられたし、審判としても、成長できた部分がたくさんありました。また94年には日本で結婚し、その後娘も生まれました。日本での審判生活も、そこで満足してしまえば、十分充実した日々が送れたかもしれません。家族の暮らしのことを考えたら、日本にいたほうがずっと安定していましたから。
丸山:
アメリカと日本、どちらのプロ野球でも審判を経験されたわけですが、その差異をどう感じましたか?
平林:
野球の規則は、アメリカも日本も大差ないんです。では、なにがいちばん違うかといえば、組織の構造そのものです。アメリカは、コミッショナーに絶大なる権限がありますが、日本は、チームのオーナーさんの集まりがコミッショナーよりも上に位置します。審判は、コミッショナーの代行としてグラウンドに立っているので、当然ながらアメリカでは、絶対的な権限があります。判定に抗議する選手や監督は少ないですし、審判をリスペクトするという精神が、それこそリトルリーグから徹底されています。対して日本では、審判が監督よりも下の存在です。ストライク・ボールの判定でも抗議はあたりまえだし、口だけではなく、手まで出してくる人までいる。アメリカで手を出して抗議する監督がいれば、球界を追われるほどの制裁があります。日本では制裁も厳しくないので、アメリカでは絶対に抗議などしない外国人選手さえもが、日本に来ると平然と抗議してしまう。僕は日本での審判時代、その矛盾をずっと感じていました。
丸山:
日本では、結婚やお子さんの誕生など、守るべきご家族ができました。その奥様の一言が、再びメジャーリーグを目指すきっかけになったということですが。
平林:
自分では、ずっと、アメリカへ戻って挑戦しなおしたいと思っていました。でも、それを自分から嫁さんに話すことはできずにいました。娘も生まれ、守るべき家族ができたわけですから、夢を語ってしまえばわがままになると思っていたんです。そんなとき、嫁さんが病気で入院したんですね。その嫁さんが、こういってくれたんです。「もしアメリカでやりたいという思いがあるのなら、やれるときにやったほうがいい」。僕は、自分の夢を口には出しませんでしたが、それでも嫁さんは、わかってくれていたんでしょうね。たとえばメジャーリーグの中継を一緒に見ているとき、あ、あいつは俺と同期だった審判だよとか、いっていましたから。嫁さんの言葉を聞いたとき、もし、明日自分が死んでしまったとしても、後悔しない人生を歩みたいと思えました。それなら、アメリカへ行こうと。まだ遅くはない、もう一度アメリカで挑戦しようと。

<来週につづく>

構成/平山譲

NEXT 2月2日(月)
「忘られぬ夢を追って、ゼロからの再出発。」

忘られぬ夢を追って、ゼロからの再出発。
日本で充実した審判生活を送るも、
アメリカ生活で芽生えたメジャーへの夢を
忘れられなかった。
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