連続する苦悩のなかで掴んだ、輝かしい栄光をもかなぐりすて、挑みつづける、野球道の極みへ。

第4回 石井琢朗さん プロ野球選手

2009年3月2日

インタビュアー 丸山貴宏

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石井琢朗さん
  • PROFILE
    石井琢朗(いしい・たくろう)
  • 1970年栃木県生まれ、プロ野球選手。県立足利工業高校時代は投手として活躍し、甲子園にも出場。
  • 1988年、ドラフト外で横浜大洋ホエールズ(当時)に入団。1年目から初勝利を記録するなど活躍するも、1992年からは野手転向を直訴。その年に三塁手として定位置を奪い、1993年には盗塁王とゴールデングラブ賞を獲得。オールスターにはその後1997年から5年連続で出場。
  • 1996年には三塁手から遊撃手へとコンバート。1997年からは1番に定着し、2001年まで5年連続でベストナインに選出される。
  • 1998年には「マシンガン打線」の1番打者として、初の最多安打、2度目の盗塁王、4度目のゴールデングラブ賞を獲得し、チーム38年振りとなるリーグ優勝と日本一に貢献。同年、球団創設史上初となる最多得点も獲得し、日本シリーズでは優秀選手に選ばれる。
  • 1999年には通算1000本安打、1000試合出場、200盗塁を達成。同年、1試合最多得点となる6得点も記録。
  • 2006年には史上34人目となる2000本安打を達成。投手として勝ち星を挙げた打者としては川上哲治以来2人目、またドラフト外入団選手としても秋山幸二以来2人目となる快挙となる。
  • 2009年シーズンより、広島東洋カープへ移籍。レギュラーの活躍を期待されている。
Next update 石井琢朗氏
ドラフト外入団という「無名」からの出発。

2009/2/23

やりがいを求めて、投手から野手へ「転身」。

2009/3/2

打撃不振と二軍落ちのなかで見つけた「原点」。

2009/3/9

「求められること」の幸せを感じつつ、新天地へ。

2009/3/16

やりがいを求めて、投手から野手へ「転身」。

投手として、いきなり初勝利を挙げ、2年目にはジュニアオールスターに出場するなど、10代にして進むべき道を切り開きつつあった石井琢朗さん。しかし、3年目が終わると、突然野手への転向を首脳陣に直訴する。監督には猛反対されたが、少年時代から積み上げてきた投手としての成功をすべて捨て、打撃、守備、走塁を、ゼロから学んでゆくことを選択する。それは、「野球を心から楽しみたい」という、自分の心に正直であろうとしたがゆえの決断であった。背番号を66から0に変更し、転向1年目には出場69試合で10個の失策、33個の三振を喫しながらも、内野手として着実に定位置を固めていき、59本の安打と、3本の本塁打を記録した。それが、のちに名球会入りを果たす、偉大な野手としての石井琢朗さんの始まりであった──。

「好きなことに挑戦できたなら、結果が出ようが出まいが、自分の選択に責任を持てるし、後悔せずにいられる」

丸山:
投手として活躍しつつあった中で、なぜ野手への転向を自ら志願されたのでしょうか。投手としてプロ入りを果たしたその可能性を放棄し、しかも、すでに実績もありながら、野手としてゼロから再出発するということには、たいへん勇気がいることだと思うのですが。
石井:
じつは高校3年生のときから、投手としての自信を失いかけていて、もう無理かもしれないなという気持ちがあったんです。それがプロに入ってからもずっと煮えきらないまま残っていました。そして、投手は無理でも、野手ならやれるんじゃないかという気持ちも芽生えていました。打つこと、守ること、走ることは、投げること以上に自分の性に合っていたし、なにより、野手としてグラウンドに立つことを想像すると、とても楽しそうに思えたんです。高校時代は、投手でも打撃や守備や走塁の練習があったので、野球をしているという実感があったのですが、プロに入ると、投手は危険だからそういう練習は駄目だといわれてがっかりしました。夢が叶ってプロ野球選手にはなれたものの、このまま投手として活躍できなかったら、きっと悔いが残るんじゃないかと思えたんです。好きなことに挑戦できたなら、結果が出ようが出まいが、自分の選択に責任を持てるし、後悔せずにいられるんじゃないかと。2年目からコーチに直談判を始めて、3年目に監督と話しあったときには激怒され、「話にならん!」と監督室を出て行かれてしまったほどに反対されましたが、最後は折れてくださって、転向を認めていただきました。
丸山:
打撃、守備、走塁を、プロとしてすべてゼロから積みあげていかなければならないことは、途方もなく嶮しい山を登る挑戦だったと想像します。多くの失敗を重ねながら、それでも2年目にはタイトルまで獲得される活躍振り。その陰には、すさまじい努力があったのでしょう。
石井:
高校時代、投手をしないときには外野を守らせてもらう程度だったので、内野の守備練習なんて経験なかったですし、打撃も走塁も、ほとんどプロに入ってから覚えたことばかりです。守備は、捕球できるだけでは駄目で、グローブの芯で捕らなければならない。打撃は、球をバットに当てるだけでは駄目で、詰まらせずに飛ばさなければならない。練習は辛かったし、苦しかったです。かなりレベルは低かったですから。でもその一方で、僕は練習を積みかさねていくことでぐんぐん上達すると、辛く苦しい練習も、新鮮なことばかりだし、心から楽しむことができたんです。やっぱり野手はいいなと。
丸山:
サードやショートでレギュラーとして活躍し、ゴールデングラブ賞を獲得するまでになったわけですが、プロ入り後に野手に転向しての栄誉だけに、苦労したぶん、喜びもひとしおだったのでは?
石井:
野手としての経験がなかったということは、もちろんマイナス要因でしかありません。でも、僕は根っからのプラス思考で、野手としての経験がないということを、癖がないぶん、コーチが教えてくださったり、先輩のプレーを見たりすることを、何でもスポンジみたいに吸収することができるじゃないかと考えたんです。幸い僕がサードを守りはじめた頃には、ショートに進藤選手というとても守備がお上手な先輩がいらして、いつも僕は、お手本を見るつもりで、隣で練習させていただきました。しかも僕は、守ることが好きで、野手になりたくて自ら志願して転向させてもらった身だったので、受け身で練習するのではなく、貪欲に、積極的に覚えようという気になれました。好きなことをすることこそ、上達への近道ですよね。

<来週につづく>

構成/平山譲

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打撃不振と二軍落ちのなかで見つけた
「原点」。

打撃不振と二軍落ちのなかで見つけた「原点」。
野手転向後、輝かしい活躍ぶりをみせていた石井選手に
突然不調の波が押しよせ、レギュラー定着後初の2軍行きを自ら選択する。
そこで、彼はなにを見つけ、どのように這い上がり、
2000本安打を成し遂げたのか。
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