- PROFILE
石井琢朗(いしい・たくろう)
- 1970年栃木県生まれ、プロ野球選手。県立足利工業高校時代は投手として活躍し、甲子園にも出場。
- 1988年、ドラフト外で横浜大洋ホエールズ(当時)に入団。1年目から初勝利を記録するなど活躍するも、1992年からは野手転向を直訴。その年に三塁手として定位置を奪い、1993年には盗塁王とゴールデングラブ賞を獲得。オールスターにはその後1997年から5年連続で出場。
- 1996年には三塁手から遊撃手へとコンバート。1997年からは1番に定着し、2001年まで5年連続でベストナインに選出される。
- 1998年には「マシンガン打線」の1番打者として、初の最多安打、2度目の盗塁王、4度目のゴールデングラブ賞を獲得し、チーム38年振りとなるリーグ優勝と日本一に貢献。同年、球団創設史上初となる最多得点も獲得し、日本シリーズでは優秀選手に選ばれる。
- 1999年には通算1000本安打、1000試合出場、200盗塁を達成。同年、1試合最多得点となる6得点も記録。
- 2006年には史上34人目となる2000本安打を達成。投手として勝ち星を挙げた打者としては川上哲治以来2人目、またドラフト外入団選手としても秋山幸二以来2人目となる快挙となる。
- 2009年シーズンより、広島東洋カープへ移籍。レギュラーの活躍を期待されている。

三塁手としてレギュラーポジションを奪った野手転向2年目にして、盗塁王とゴールデングラブ賞を獲得した石井琢朗さん。その後はオールスターの常連選手となり、ショートへコンバートされてからも、ベストナインに輝く活躍振りを見せる。もはや押しも押されもせぬ球界不動のリードオフマンとなったが、突然、不調の波が押しよせる。2002年、打率が8年振りに2割8分を下回り、翌2003年には100安打にも届かずに、打率は2割3分1厘という、野手転向後最悪の数字に。周囲からは限界説、若手との世代交代まで囁かれはじめた。監督から先発落ちを命じられると、自ら志願してレギュラー定着後初の2軍行きを選択する。若者たちと、汗まみれ、泥まみれになって喘ぐ日々。そこで彼は、なにを見つけ、どのように這いあがり、そして、2000本安打達成の大記録へと登りつめたのだろうか──。

- 丸山:
- 2000本安打の大記録も視野に入ってきた折りに、突然襲ってきたスランプ。キャリアの中では、好調な時期ばかりではなく、不調な時期こそ、人をさらなる成功へ導く手がかりがあるようにも思えますが。
- 石井:
- 初めて不調を経験するまでは、「攻め」の気持ちだけで、どんな逆境にも耐えて突っ走ってきました。僕にとっての野球は、少年時代同様、趣味や特技の延長線上でしかないといった感じだったんです。それが、子供が生まれて家族が増えたことで、野球を「職業」として意識しすぎてしまったことで、弱さが出ましたね。精神的に「守り」に入ってしまったんです。2002年に1500本安打を記録したあとには、ああ、1年間に150本ずつ打っていれば、2000本はあと数年でいけるなと、そんなことを考えるようになったんです。すると、なぜか2000本という数字が、重くのしかかってきてしまって、ぼろぼろに崩れていきました。ヒットが出ずに不調のときは、精神的にきつくて、鬱のような状態でした。一度不調になってなかなか復調できずに引退していく選手って、こんな感じなんだろうなと考えたり。人って、守りに入ると、こんなにまで脆いものなんだと思いました。
- 丸山:
- 自ら2軍落ちを志願し、若者との生存競争に身を置かれたということですが、石井さんの野球人生を振りかえると、「いつでも原点へ回帰できるがゆえの強さ」を感じます。
- 石井:
- 「明日からリフレッシュしろ」と監督にスタメンを外されたとき、自分のポジションに代わりの選手がいるのをベンチから見ることが、はたして気分転換になるのかなと思えたんです。逆にストレスがたまるんじゃないかと。だから翌日、自分から監督に、二軍に落としてくださいとお願いしました。とにかく、自分の選手としてのキャリアをすべてリセットして、もう一度初心に戻って「攻め」の気持ちで野球に取り組んでみようと思ったんです。他人にはどう見えていたかわかりませんが、僕にとっては精神的にどん底でした。でも、考えてみれば、若いとき、野手に転向したばかりのときも、ゼロから、どん底からのスタートだったんですよね。それなら、またその下積み時代に戻ってやり直せばいいだけじゃないかと。そして二軍では、若い選手に交じって大声出して、汗や土埃にまみれて野球ができて、よし、またここから這い上がってみようと、原点に帰ることができました。もし、あのまま1軍で燻っていたら、たぶんそのままだったような気がします。
- 丸山:
- 2000本安打や、通算安打の球団記録更新と華々しい復活をされ、「ミスターベイスターズ」としてさらなる輝きを放たれました。ここまでに最も必要だったと思われる精神を一つだけ挙げるとすると?
- 石井:
- 振り向かないこと、でしょうか。ひとまず過去の実績はどこかへ置いておいて、いつでも現在の目標に一生懸命になって挑戦すること。たとえば今回の移籍についても、横浜というチームに長年お世話になってきて、そのチームが強くなってほしいという気持ちがあるんです。いまはチーム全体が若返りの時期で、大きな変革を迎えています。その状況で、将来性を考えた選手の起用法をしているなと客観的に思えました。もし僕がチームを去ることがプラスなら、若手にチャンスを与えるべきかもしれないと、悟っていた部分もありました。だから僕は、過去にしがみつくより、新たな一歩を踏みだしてみようと。そしていま、移籍が決まって、ずっともやもやしていたもの、背負っていたものを全部おろして、新鮮で、すがすがしい気持ちで挑みはじめられています。
<来週につづく>
構成/平山譲
NEXT 3月16日(月)
「求められること」の幸せを感じつつ、新天地へ。 |
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大記録を達成した後、膝の手術、死球による怪我などに見舞われ「ミスターベイスターズ」とまで呼ばれた彼が、戦力外通告を受けることに。
けれども彼は諦めなかった。その原動力になったものは・・・。 |